唾液のことを、ずっと「口の中の水」だと思っていました。
食べ物を湿らせて、飲み込みやすくするためのもの。 せいぜい、消化を少し助けるくらいのもの。
食生活を変えていく過程で咀嚼について調べたとき、その認識がまるごと崩れました。 唾液は水ではなく、6つの仕事を同時にこなしている多機能液でした。
分かっているだけで11種類
唾液に含まれる成分を、確認できたものだけ並べてみます。
| 成分 | 働き |
|---|---|
| アミラーゼ | デンプンを麦芽糖に分解する |
| ムチン | 食べ物をまとめ、飲み込みやすくする。粘膜を保護する |
| リゾチーム | 細菌の細胞壁を壊す |
| ラクトフェリン | 細菌に付着して発育を阻害する |
| 分泌型IgA | 侵入した病原体にくっついて無力化する |
| ペルオキシダーゼ | 抗菌作用に加え、活性酸素を消去する |
| ヒスタチン | 細菌の繁殖を抑える |
| カルシウム・リン酸イオン | 溶けた歯のエナメル質を再石灰化する |
| スタテリン | リン酸カルシウムの沈殿を抑え、歯が溶けるのを防ぐ |
| 重炭酸イオン | 口の中の酸を中和する(緩衝作用) |
| ガスチン・亜鉛 | 味を感じやすくする |
整理すると、役割は6つに分かれます。
消化(アミラーゼ)、保護と嚥下(ムチン)、 抗菌(リゾチーム・ラクトフェリン・ペルオキシダーゼ・ヒスタチン)、 免疫(IgA)、歯の修復(カルシウム・リン酸・スタテリン)、 pH調整(重炭酸イオン)、そして味覚(ガスチン・亜鉛)。
一つの液体が、これだけの機能を同時に持っている。 システムで言えば、単機能のユーティリティだと思っていたものが、 実は6つのサービスを載せた共有基盤だった、という感じです。
出どころは3つある
唾液は、耳下腺・顎下腺・舌下腺という3つの大きな唾液腺から出ています。 そして、それぞれ性質が違います。
- 耳下腺:サラサラ(漿液性)
- 舌下腺:ネバネバ(粘液性)
- 顎下腺:その両方をあわせ持つ(混合性)
面白いのは、状況によって主役が入れ替わることです。
食事中など「噛んでいる」ときは、サラサラの耳下腺の分泌が多くなる。 何もしていない安静時は、顎下腺のほうが多くなる。
噛むと口の中が水っぽくなるのは、気のせいではなく、 実際に出てくる唾液の種類が切り替わっているからです。
分泌量は成人で1日1.0〜1.5リットル。500mlのペットボトルで2〜3本分を、 毎日、自分の体が作っていることになります。
ただしこの量は一定ではありません。 ストレス、疲れ、加齢、薬の副作用などで減ることがあるとされています。
消化は胃から始まっていない
ここから、噛むことの話に移ります。
唾液のアミラーゼは、口の中でデンプンを麦芽糖に分解します。 つまり、消化は胃で始まるのではなく、噛んでいる時点ですでに始まっている。
自分はこれを、恥ずかしながら知りませんでした。 「口=入り口、胃=消化」という素朴なモデルで理解していたのです。
正しくは、口が消化の第一工程です。
噛むというのは、前処理です。
前処理を飛ばしたときに何が起きるかは、 システムを触ったことがある人なら想像がつくと思います。
負荷は消えません。次の工程に、そのまま積み上がるだけです。
自分が噛むようになった理由は、精神論ではなく、この構造でした。 「よく噛みなさい」という言葉は30年間まったく響かなかったのに、 「前処理を飛ばしている」という理解の仕方をした途端に動けたのです。
江戸の人は、同じ時間で1.6倍噛んでいた
時代ごとの咀嚼回数を推計したデータがあります。 再現した食事をもとにした推計値ですが、傾向としては示唆的です。
| 時代 | 咀嚼回数 | 食事時間 |
|---|---|---|
| 弥生 | 3,990回 | 51分 |
| 平安 | 1,366回 | 31分 |
| 鎌倉 | 2,654回 | 29分 |
| 江戸前期 | 1,465回 | 22分 |
| 江戸後期 | 1,012回 | 15分 |
| 戦前 | 1,420回 | 22分 |
| 現代 | 620回 | 11分 |
弥生時代から現代への激減がよく引用される数字ですが、 自分が引っかかったのは、江戸後期と現代の比較です。
食事にかける時間は、15分と11分。そこまで大きな差ではありません。 それなのに噛む回数は、江戸後期のほうが1.6倍多い。
つまり江戸の人は、同じくらいの時間で、今より多く噛んでいたことになります。
だとすると、現代人が噛まなくなった主因は「忙しさ」ではありません。 食べ物のほうが柔らかくなった、と考えるほうが素直です。
食べ方が変わったのではなく、食べ物が変わった。 そして食べ物が変わった結果として、食べ方が変わった。
このブログでは江戸時代の食事をよく取り上げていますが、 「何を食べていたか」だけでなく「どう食べていたか」にも 差があったことになります。
国も「難しい」と書いている
厚生労働省は、一口30回噛むことを勧める 「噛ミング30(カミングサンマル)」という運動を提唱しています。
ゆっくりよく噛むことは、『肥満症診療ガイドライン』のなかに 「咀嚼法」という行動療法として、正式に位置づけられてもいます。
ただし、同じ厚生労働省のページにはこう書かれています。
「必ずしも容易に実践できる習慣ではない」
推奨する側が、難しさも併記している。 この率直さは、むしろ信頼できると思いました。
実際、自分も30回噛むのを始めて数日で顎が疲れました。 30回噛むだけで疲れる顎を、何十年も使ってきたわけです。
噛む力が落ちていたことに、噛んでみるまで気づけなかった。
一番簡単なことを、後回しにしていた
食べるものを変えるには、お金と手間と、そこそこの意志がいります。 油を選び、調味料を見直し、加工品の表示を読む。全部コストがかかる。
噛む回数を増やすことには、そのコストがありません。 今日の昼から、一円もかけずにできます。
それなのに、自分はここを一番後回しにしていました。
何を口に入れるかは何年も考えてきたのに、 口に入れたあとのことは、一度も設計したことがなかった。
唾液が6つの仕事をこなしていること。 消化の第一工程が口にあること。 そして、その工程を起動するスイッチが「噛む」であること。
知ってしまうと、飲み込む前に一拍おくようになります。
今、自分が意識しているのはシンプルです。
よく噛むこと。唾液としっかり混ぜること。 食べ物がペースト状になるまで噛むこと。
飲み込んだあとの消化は、胃や小腸といった消化器官の働きに委ねるしかありません。 だったら、そこに渡す前処理の完成度を上げておく。 それだけで、消化器官にかかる負担や消化・吸収効率も変わるはずです。